好きな人に会うことに、

苦労を感じる人は

いないでしょう。

山本農園 山本嘉紀さん

早朝五時、明けの明星が輝く一日のはじまり、山本さんは眼前に広がる盆地を見渡す。
乾拭き屋根、丸や四角や三角の田んぼ、山の麓を流れる川。
故郷であり、現在の生業の地。日本古来の山村で育った山本嘉紀(よしき)さんにとって、農業は自分の原風景に触れる営みでもある。

ジュースの自販機もない、コンビニもない、高校は山一つ越えないとたどり着けない。
東北に似た肌寒い土地柄の農村、滋賀県甲賀市信楽町にある山本農園は、山本さんに言わせれば「桃源郷」だ。
名物である樹齢五百年のしだれ桜を中心に、混じりけのない四季そのものが、かわるがわる巡ってゆく。
「訪れた人が、豊かさや温かさを感じる場所」
誰しもが思いを馳せる憧憬に、農業という生業を息づかせることが、山本さんの目標だ。


以前の山本さんは、事務機器の営業や経理業務などに携わる至極普通のサラリーマンだった。
勤め人としての生活には数多の良い出会いもあったものの、かつて教師や宗教者を志したこともある山本さんにとっては、心を痛める瞬間もたびたび訪れた。
ビジネス上の浮薄な会話に揉まれたときは、デスクの上に飾った花の写真を眺め、故郷の風景をぼんやりと思い浮かべながら、心を宥める日が続いた。
父親の老いや地元への愛情に駆られて郷里に帰り、自然農法を実践し始めたのは1999年。農業は、孤独で懸命な働きだった。

気まぐれな天候や生き物たちの行動の前には打つ手がない時もある。
やっとの思いで定植した茄子がひとつ残らず鹿に食べられてしまったことや、豪雪でハウス二棟が完膚なきまでに押しつぶされてしまったことは、今も昨日のことのように思い出す。
しかし、本当の「苦労」を感じたことは一度もないと、山本さんは胸を張る。
「好きな人に会いに行くのに、苦労を感じる人はいないでしょう」とも。


土に触れると、安心感や癒し、母性に近い温かさを感じる。
作物のまわりを、多様な生物が舞っている。
太陽や月、雨や風を、全身に受けて作物は育つ。
農業に携わることは、自然や宇宙のドラマを間近で鑑賞しているようなものだ。
山本さんがつくる人参は、素直で、甘くて、それでいてどこか力強い。
見栄えのするスマートな人参ばかりつくっていると、土がひ弱になっていくのだと、山本さんは実感をこめて言った。
自分が土や生物を通して垣間見た自然や宇宙のドラマ。それを、野菜を通して消費者と共有していくことが、彼の農業の本質でもある。そのドラマには、人を癒す力がある。


山本農園には、自然農法を学ぶ研修生が人いる。年齢は二十代から四十歳まで。約二年間、山本さん一家と共同生活をおくる家族だ。
几帳面な山本さんに習って、部屋の掃除は心をこめて行うよう決めている。
しかしそれ以外の生活は、基本的にそれぞれの自主性任せだ。農業においても、一人ひとりが気づいた生育状況や天候の気配は毎日のミーティングで共有し、そのうえで自ら解決法を探る。
自分の考えに基づき、主体的に行動できるようになるのが、農家としての第一歩だからだ。

数年後、彼らが独り立ちをするときまでに、山本さんは自分の持つすべてを惜しみなく伝える。
決めた時間内にできるだけ作業が終えられるようにするのは、山本さんの気遣いだ。
一日のメリハリをしっかりと付けることで、山本さん自身、勉強の時間や家族と過ごす時間を確保することができる。
家族円満は、良い野菜をつくる秘訣の一つでもある。しかし農業に夢中で、余暇の時間も「心ここにあらず」だと、たびたび叱られてしまう。
二十四時間、片時も農業は頭から離れない。
厄介な職業病に、山本さんはやれやれと微笑んだ。