勢い任せのはじまり。

だが不思議と、

孤独は感じなかった。

近江園田ふぁーむ 飯盛加奈子・晋川芳大さん

滋賀県のちょうど真ん中あたり。
琵琶湖のほとり、近江八幡にある「近江園田ふぁーむ」は、長らく米づくりひとすじを貫き、高い評価を得てきた農業法人だ。

しかし数年前、突如としてそこに「野菜部」が新設された。
飯盛加奈子(いいもり かなこ)さんと、晋川芳大(しんかわ よしひろ)さん。
目下、メンバーは二人だけ。
何年か前、新しく野菜づくりを始めたいと代表に頼み込み、押しの一手で敷地の一区画を勝ち取った。

とは言っても、二人に専門的な技術や知識があったわけではない。
それどころか、「近江園田ふぁーむ」の一員になってからも、まだまだ日が浅い。
「始めてしばらくは、毎日胃が痛かったよね」
二人にとってこの場所は、二重の意味で新天地だった。

晋川さんの前職はプログラマー。
デスクに座ってキーボードを叩き、仕事終わりは同僚と飲みに行く。そんな生活も嫌いではなかったが、あるとき思い立って仕事を辞め、友人と二人でオーストラリアに飛んだ。

ワーキングホリデー(諸外国での休暇という枠組みの中で、アルバイトで滞在費用を補うことができる制度)を利用し、働き手として入ったのは大きなフルーツ農園。
そこで初めて農業というものに触れ、その後も多くの場所で農作業を経験した。

帰国後も自らの仕事に農業を選んだのは、その時の楽しさが頭に残っていたからだろう。
いくつかの農業法人を回り、最終的にこの農園に落ち着いた。

飯盛さんは、近江園田ふぁーむの会長の「姪(めい)」にあたる人物だ。
しかし生まれは京都、育ちは大阪で、滋賀には長期休みで訪れるくらい。
だから子ども時代、農業に身近に触れた経験はほとんどない。

学校を出た後、大阪で介護士として働きはじめ、やがて結婚して三人の子宝に恵まれた。
だが、家と職場と保育園を忙しなく回遊する生活に、次第に不調と行き詰まりを感じ始めた。

なんだかうまく呼吸ができていないような感覚。
開放的な場所で、深呼吸をしながら仕事をしたいと思った。
そんなとき、子どものころに訪れた、近江八幡の景色を思い出した。

その最初期から現在に至るまで、近江園田ふぁーむの歴史は、米づくりの歴史でもある。
周辺の環境に配慮した農法にいち早く取り組み、食味の評価も高い。

二人が入社した当時、当然のように仕事はすべて米関係で、手掛けている圃場も田んぼばかり。
だが、よそ者同士の感性には近いところもあったのだろう。どちらともなく空いた土地に種を播き、二人して野菜づくりをはじめた。

休み時間のサークル活動のようなものだったが、育つ野菜を見るのは楽しく、収穫の成果もぼちぼち。
自分たちだけで楽しむのは勿体ないと近所のマルシェに出してみたところ、訪れた人たちは喜んで野菜を手に取った。

やりがいとは、そういう時に芽生えるのだろう。安定した収益が得られるのかは未知数だった。だが必ず形にしてみせると心に決め、野菜部の立ち上げを直訴した。
自分たちのつくったもので、誰かを喜ばせる。野菜づくりの醍醐味に触れてしまった後だから、やらないという選択肢は考えられなかった。

勢い任せのはじまり。だが不思議と、孤独は感じなかったという。
職場の先輩たちにアドバイスを貰いに行くと、時に想定の倍以上のボリュームで返された。
「おままごとでも始めたんか」
近所の人たちは口でからかいつつも、どこかいつも気にかけてくれた。
マルシェで顔を合わす人、農場に見学に訪れる人。
野菜づくりをはじめてからというもの、日常的に関わる人の数が大幅に増えた。

増えたのは、それだけではない。
飯盛さんが子どもたちに持たせるお弁当の、野菜の量。
他所ではあまり手に入らないような珍しい野菜は、飲食店などのニーズに沿うよう、晋川さんの日々のリサーチによって見つけられたもの。
「変な野菜」などと言いながら、空になった弁当箱を持ち帰る子どもたちの顔は、どこか満足げなのだそうだ。

よそ者の二人がつくる野菜だけど、少しずつ着実に、地元の野菜として根差しつつある。
野菜部が、「近江園田ふぁーむ」の二本目の柱と認められるとき。
それは、そう遠くない未来だろう。

かつて、この場所は畑ではなかった。
時と共に表情を変えるのは、都会の風景だけではないのだ。