見続けたのは、

どんな時も米づくりを

考える父の顔だった。

中道農園 中道唯幸さん

幼いころ、通っていた理髪店の亭主が、「たー坊が来ると他の子たちがみんな隠れるなあ」と笑いながら頭を掻いた。

昭和三十三年、場所は大阪府門真町(現:門真市)。東京大阪間を「こだま」が開通し、東京タワーが竣工したこの年、二百年続く米農家の長男として中道唯幸(なかみちただゆき)さんは生を受けた。
生来の悪戯好きでやんちゃ坊主。何に対しても物怖じせず、常に近所を駆け回っていた。その頃の門真と言えば、まさに高度経済成長の真っ只中。人口増加率は全国一位を記録し、かつては田んぼだった土地土地に、雨後の筍のように家屋が建った。

一つの節理として、都市化が進めば農地は減少する。
洗剤やガラス片の混じった青白い生活排水は、門真の農家たちの新たな悩みとなった。高まる需要の声に押され、多くの農家たちが農地を転用し、収入源を不動産に求めた。

刻一刻と変化する環境。中道さんの父、登喜造(ときぞう)氏は、遂に門真で米づくりを続けることに限界を感じ、場所を移すことを決意した。家族に家を任せ、新天地探しに単身各地を行脚すること数年。飛行機に乗ったという父の土産話を、子供心にずるいと羨んだ。

西日本中を回る父の旅が終わったのは、中道さんが小学六年生の時だった。たどり着いたのは、滋賀県の野洲(やす)。琵琶湖のほとりで水は澄み、空を遮る屋根や煙突もどこにもない。農にとっては、これ以上なく恵まれた場所だった。

野洲の中学を出て農業高校に進み、そのまま農家になった。
記憶をたどり、「親父のマインドコントロールが上手かったんだな」と結論付ける。普通ならつい口に出す農業への悲観や愚痴を、父は一切漏らすことはなかった。幼いころから見続けたのは、どんな時も米づくりを考える父の横顔だった。だから、家業を継ぐことに嫌な思いはなかった。

しかしそんな父は、ある頃から深刻な身体の不調を訴えるようになる。長年撒き続けた農薬を、身近で浴び続けたことが原因の中毒だった。
頭痛、発熱、手のしびれ――。
医者の指示により、代わって農薬散布を行うことになった中道さん自身も、やがて身体に異変が訪れた。

「このままでは何よりもまず、自分たちの命が危ない」
従来の農法を脱し、農薬を用いない農業を実現すること。じきに農園を継ぐことになる中道さんの眼前に、突然に逼迫した課題が立ちふさがった。

農薬をはじめとする近代農業の産物は、元々は農家たちの身体的負担を軽減するための発明でもある。
「無農薬なんて馬鹿げている、奴隷のような百姓仕事に戻る気か」
そう言って中道さんを強く批判したのは、他の誰でもない実の母だった。

我が身一つの前時代的な農業を知る人間からの言葉。事実、収量も収入も思い切り落ち、以前とは段違いの疲労だけが残った。数少ない無農薬仲間からの電話は、取り次いでさえもらえなかった。父の時代からの借金は依然として残り続けた。

焦燥のなか、藁をもつかむ思いで活路を求めたのは「インターネット」の世界だった。
父が没した年に購入した一台のマッキントッシュ。米づくりの合間を縫って、見様見真似で農園のホームページを作った。

最初は農園の写真をただ載せただけの簡素なものだった。買い物カゴ機能を付けると、週に一件ほどのペースで注文が入るようになった。
農家から消費者への直販など、まだ全国的にも珍しい時代。数々のハウツー本を手に取り、場違いなセミナーにも足しげく通って教えを乞うた。

無農薬の米へのニーズは、今後さらに伸びていくだろう。消費者との直接のやり取りを続けるうち、確たる実感を得た。来るべき時代に備えて、栽培設備やウェブ周りにも身を切って投資した。

栽培と販売。今まで農家があまり関連付けて捉えてこなかったその双極が、中道さんの中で重なった。
「中道農園」の名は、徐々に農業界で広く知られるものとなっていった。

屈託なく誰にでも話しかけ、わからないことは素直に教えを乞う。
時代の風向きとともに農業は進化したが、人間の性質というのは変わらないらしい。小学生のまま還暦を迎えたんだと言って笑う。

「いいか中道、今度はお前が教える番になるんだぞ」
惜しげもなく手を差し伸べてくれた先人たちは、いつも決まってそう付け加えた。その言葉を守り、今も農園の見学者たちと、隠し事なく農業談議に花を咲かせる。

夏の暑い日。サンダルを脱ぎ、裸足で田んぼにつかる姿に少年時代の面影が見えた。
日差しの下で、一筋の汗が顔を流れた。