地元、石川を飛び出したのはハタチの時だった。
高校の土木科を出てすぐに地元の建築会社に入社したのはいいのだが、大工仕事は重労働で、朝も早い。
雨降りは休みだと思っていたのは初日だけ。多少の風雨は合羽を着こみ、身体中ずぶ濡れで建物の土台となる型枠を組み立てた。
そんなとき、耳に入ってきた知らせ。聞けば、かつての級友が大阪で一人暮らしを始めたのだという。
渡りに船とばかりに故郷を離れ、居候のようなかたちで新天地へと転がり込んだのだった。
転機は大阪の街中で訪れた。
偶然前を通りがかった、アルバイト募集の紙が貼られた焼き肉店。
流石の都会といったところか、内装は地元では見たことがないほどあか抜けていた。
それどころか、店先を掃除する店員までもがどこか洗練されて見える。
二十歳の青年にとって、働く場所を決める理由はそれで十分だった。目下の食い扶持があれば、それで困ることはなかった。
軽い気持ちで店の扉を開け、命じられたのは厨房仕事。
まさかそこから十年以上、自分が料理人として過ごすことになるとは、この時はゆめゆめ思っていなかった。
皿を洗う手つきもおぼつかず、当初の扱いは雑用と大差なかった。
思い入れがあって始めた仕事ではないのだし、いつ職を変えても構わない。そう思って日々を過ごしていた。
なんの気まぐれだったのだろう。ある日、同僚から「自分の包丁」を持つことを勧められ、それに乗った。
思えば、料理人としての自覚が生まれたのはその時だった。自ら選んだ包丁を支える腕に、しなやかな責任感が通った。
「自分はこのまま、一生を料理の世界で生きるに違いない」
そんな想いが頭に去来し、中村さんは次第に、厨房のほとんどを取り仕切るようになっていった。
いつしか中村さんの肩書は「料理長」となっていた。
二度目の転機が訪れたのは、料理長として過ごす、ある冬の厨房だった。
開店前の仕込みの時間。熱い湯を張った鍋に、ナムルにする予定のほうれん草を沈める。
色濃く茹で上がった、まだ湯気のあがったそれを何気なく口に入れて、驚きが走った。
寒さ増す季節のそれは、鮮やかに、そして衝撃的に甘かった。
驚きだった。
十年以上を料理の世界で過ごしていながら、「料理になる前の野菜の味」には、正直なところ無頓着だった。
何の手も加えていないそのままの野菜が、旬の時期にはこんなにも豊かな味になる。
しかし店で提供する以上、そのままの状態で出すことは良しとされない。
それならば、と中村さんは思った。
それならば、「食事」より「食材」をつくりたい。
二十歳の転機は偶然だった。しかし今度の転機は、自分の意志によるものだ。
熱い想いに突き動かされ、中村さんは農家になることを決意したのだった。
滋賀の大規模農家のもとに従業員として入って三年半。三十五歳で独立を果たした。
中村さんの農業の特徴は「自然農法」。極力畑に人の手を入れず、耕すこともしない。できるだけ自然のままの環境で、野菜を育てようとする農法だ。
そしてもう一つは、彼の育てている野菜にある。ブラジルのキュウリ「マシシ」やイスラエルのオクラ「スターオブデイビッド」、熱帯アジアで栽培が盛んな「シカクマメ」など、他所では見かけないユニークな野菜たち。
見るだけで楽しくなるような野菜を好むのは、かつて料理で人々をもてなした時代があるからだろう。収量が安定しない時も、お客さんの笑顔が励ましとなる。
料理人から農家へ。
未知の世界へと転身した中村さんだが、それでも人生は一本の筋で繋がっている。
マルシェで野菜を売る合間、時間つぶしに「包丁研ぎ」の文字を掲げたところ、丁寧な仕事ぶりで評判となった。「ゆたかマン」という屋号も、そのとき一気に浸透した。
今の奥さんと出会ったのもその場所だった。奇しくも、「包丁」には二度も背中を押してもらったことになる。
子どもが生まれた翌年の正月。家族を連れて石川に帰省した。
なにも持たずにこの場所を飛び出してから、もう二回りほど年を重ねている。
あれからいくつもの転機があった。
眼前に、そのころの景色を重ね合わせ、ふと胸が熱くなった。