琵琶湖へ流入する河川の中では最長を誇る、野洲川(やすがわ)のほとり。
周りの家々からすこし離れたところに、いくつものビニールハウスが並んでいる。くろだ農園のハウスは、そのうちの五棟。農園全体では五十アールの敷地がある。ハウスから出ると琵琶湖からの風が、身体の横をすうっと通り抜ける。
「このへん、昔は野洲川の流域だったんですよ」
かつて南北に別れて琵琶湖に注いでいた野洲川は、相次ぐ氾濫の抜本的な解決のため、現在のような一本の放水路へと改修された。
それに伴い、南北の河川跡は、今は農地として利用されている。
外部からの人の手があまり入らないぶん、農薬や化学肥料を使わない農業には適しているらしい。
とはいっても、昔の野洲川の姿かたちを、黒田さんは見たことがない。
くろだ農園の黒田一成(かずなり)さんの出身は兵庫県神戸市。農業を始めるまで、滋賀県とは縁なく育った。
大学を出たあとも、一度は三ノ宮の街で就職。柔和で落ち着いた物腰には、今も都会育ちの雰囲気が残っている。
それだけに、一般企業の営業職から一転しての就農は、周りにとっては寝耳に水だった。
「ファーマーズ・フェア」という、新規就農を目指す人に向けた説明会に参加したのは九八年。
黒田さんにはじめて「農業」という仕事を提示したこのイベントで、とある滋賀の農業法人と出会い、そのまま単身滋賀へ。
振り返れば大学生のころ、所属したゼミでは環境問題を主に取り扱っていた。
その流れで、就職活動時には環境系のNGOに就職することも考えた。
しかしその頃、黒田さんの頭に農業という選択肢は浮かんですらいなかった。
この新しい職業との出会いは、偶然であり、縁でもあった。
各人に分担された農作業のなかで、主に命じられたのは農機具のオペレーターだった。
入社したのが夏だったから、はじめは一日中、草刈機を動かして回った。
草を刈るときの激しいハンドルの振動は、作業を終えた後もずっと手のひらに残る。
知り合いも誰もいない一人暮らしの部屋で、震える腕中に湿布を貼った。意識したことのない場所の筋肉が、大きく悲鳴をあげていた。
自分で決めたことだから、辞めたいとは思わなかったし、社内の空気も悪くはなかった。しかし慣れない環境のストレスと疲労は、一人の時間にこそ強く心身に迫った。
日中聞き通しだったエンジンの音が、まだ耳の奥で鳴っている気がした。農業は、常に自分自身を見つめるような仕事だった。
二年間の修業期間を終え、今の農地を人づてに紹介されたのは二〇〇〇年。自らの名を冠した農園主として独立した。
法人時代の主品目は米だったので、野菜の栽培については素人のようなもの。本を片手に、手さぐりで作付けを終えた。
それでも更地であったことが功を奏したのか、幸運にも収穫は順調で、大口の販路もすぐに見つかった。
真面目で誠実な性格が実を結び、新天地でのスタートは円滑であるように思われた。
しかし数年が経って、黒田さんは自ら最大の販路を手放すことを決意する。
安定した取引がある一方で、お客さんとの一対一の対話がなく、思うような農業もできないことへの違和感があってのことだった。
新たに目を向けたのは、県内外のレストランや駅前の朝市。確かな収入源を捨て、自分一人で新たな販路を探すのは大変な仕事だったが、前職での営業経験が思い出され、人と話すたび気分が弾んだ。
一度は減った収入も、わずか数年で、同水準まで回復を遂げることができた。
「つくることより、売ることの方が楽しいですね」
その言葉をもう少し掘り下げるならば、きっと黒田さんにとっての野菜とは、自分以外の誰かに触れられ、食べられて、ようやくそこで完成するものなのだろう。
自慢の野菜を渡すと、次に会った時には必ず感想を貰える。野菜づくりの気づきやヒントが、そこから得られることもある。つくることと、売ることは、どちらが欠けてもいけない。
農業への想いや情熱を、自分から語ることは少ない。あくまでも謙虚に、お客さんの視点に立つことを優先する。
しかし畑仕事で引き締まった二本の腕が、何よりも雄弁にその仕事ぶりを語っている。
たまの休み、黒田さんは一人で山に登るらしい。それも大阪や奈良の、結構遠いところの山に。
美しい景色や心地よい自然に浸る楽しみはもちろんあるが、
「ふだんの作業だけでは使う筋肉が偏るんです」
だからバランスよく鍛えておきたいと、事もなげに語る。
あくまで真面目でストイック。二十年の歳月は、人を根っこまで農業に染める。