先代からの声掛けは、

まさに、

そんなタイミングだった。

(有)クサツパイオニアファーム 中山欽司さん

古巣に戻ることになったのは、三十代も半ばに差し掛かったころだ。
戻ってきて自分の跡を継いでみないかと、先代の社長から打診があった。
独立し、一農園の主としての生活を送ってはいたのだが、だんだんと一人だけでは打破できない壁に直面し、「仲間」や「地域」の重要性を感じはじめた矢先だった。
考えた末に、中山さんは先代の誘いに応じることにした。県下最大規模の有機栽培圃場を持つこの農園。一度離れたあの日から、六年の時が経っていた。

中山欽司(なかやま・きんじ)さんが最初にクサツパイオニアファームに入ったのは、大学を卒業してすぐのこと。
もともとは「昆虫学」の研究室に所属する学生で、農作物を襲う害虫の天敵関係にある虫を誘導し、「虫をもって虫を制す」技術を学んでいた。
当時は研究職を目指すことも考えていたという。だが卒業を控えたころになると、一度は現場に入りたいという想いの方が上回った。

在学中の研修先だった同農園が、当時、特に新入社員の募集を行っていたわけではない。
しかしガソリンスタンドでのアルバイト経験を活かし、すいすいと農機具を操る中山さんを見て、先輩の一人が入社の後押しをしてくれた。

入社後は農園の絶対的な栽培品目である米づくりを担当しながら、販売や営業の担当にも手を挙げた。農業の川上から川下まで、一連の計画を立てては実行していくことが好きだった。

だが若い時分、「挑戦」という言葉の魅力は、抗いがたいものだった。
二十代の終わりごろ、中山さんはこの職場を離れ、独立することを決めた。
職場の伝手で紹介された市内の農地。祖父の名を冠した「百姓 欽佐ヱ門」という屋号で、一農園の主としての生活が始まった。

独立から間もないころ、中山さんは農園づくりの示唆を求めて、「カリスマ農家」と呼ばれる人たちのもとを訪ねて回った。
すると、彼らの農園は野菜の味もさることながら、農園自体がなんとも言えず美しい。
そこに通底した流儀を感じた中山さんは、自らの農園にも同じような美学を取り入れようと努力した。
どこか普通と異なる中山さんの農園には、次第に見学者や、話を聞きたがる人々が集まりだした。

またある時、ふとしたきっかけから、果樹の剪定の講座を受けることにした。そこで得た技術は、農園づくりにはもちろん、知人宅の庭木の手入れにまで活かされた。

荒れ気味だった庭先も丁寧に手入れすれば、また木々に花が咲くようになる。
不思議なことに、手入れされた庭は、その地域全体の雰囲気をも明るくする。

このような経験は、中山さんにある気付きをもたらした。人の目を喜ばせるような農園づくりは、次第に地域の景観や、雰囲気をも変えていくのだった。

しかし、日々の農作業は多大な時間を要する。
地域のことも、景観のことも、一人きりの力では到底手が及ばない。だからこそ、中山さんは仲間をつくる必要性を感じていた。
先代からの「後継ぎ」の声掛け。それは、まさにそんなタイミングでの出来事だった。

中山さんが帰ってきてからのクサツパイオニアファームの変化は、圃場を一目見るだけでわかる。
夏場に田んぼ一面に広がる赤シソは、戻ってきた中山さんが、着任早々に種を蒔いたもの。
見た目に美しいのは勿論で、買い手も豊富。収穫時には、周りに爽やかな芳香が立ち昇る。

赤や黒の穂をつけた稲たちが揺れる様子も、他所では滅多に見られない光景だ。
近くの大学の先生から種を譲り受けた古代米で、栄養価に秀で、商品としてのバリューもある。
両者とも、今では地域のシンボルのようになっている。ふと通りがかった人が、物珍しそうにスマートフォンのレンズを向け、農園を写真に収めていくという。

正直なところ、かつての職場への再合流には、苦労を感じることもある。
独立時代と違い、取り組みの一つひとつに、社員たちの理解と協力も要る。

しかしその不自由さより、ともに働く仲間を得られた喜びのほうが勝る。考えの共有を行うため、中山さんは農園の理念を、社員たちと一から作り直すことにした。
「仲間と共に笑い合える農業」。途中で出てくるそんな一文は、社員たちとのワークショップの中から生まれたものだ。

そして、今の中山さんたちが掲げる当面の目標は、「食べられる村」をつくること。農作物で地域を彩り、そこにいる人たちが誇りに思えるような農業を実現したいのだという。

若き二代目は揚々と、挑戦の楽しさを語る。