六十歳というのは、

二人にとって

重要なタイミングだった。

ふぁーむ陽光 秋山千代美・晃さん

滋賀県野洲市、三上山。
すっと絵筆をすべらせたような稜線が優美で、地元では通称「近江富士」として知られているこの山。
その姿を常に眺められる場所で農業をしたいというのは、妻である千代美さんの希望。
千代美さんと晃さん。「ふぁーむ陽光」の秋山さん夫妻がこの地で農業を始めたのは、二人が還暦を過ぎてからの話である。

同じ年、同じ月に生まれた二人が出会ったのは二十四歳の時。
「結婚適齢期」なんて言葉がまだ何の違和感もなく使われていた社会の中で、二人は当時、独身という己の身分に何の違和感も持っていなかった。
それどころか、なんとなく自分は結婚なんて一生縁遠いのではないか、などという気さえしていた。
仕事の関係で互いを知った時、二人とも、どうも相手に自分と似たような雰囲気を感じたのだと口を揃えて言う。
直感的に惹かれ合って交際を開始し、一か月後には結婚に合意。結婚式の日取りは、千代美さんの二十五回目の誕生日だった。

お互い神戸の出身で、生まれた家も、当時の勤め先も、農業とはなんの関係もない。
農業や農産物に興味を持ったきっかけは子どもの誕生。真心こめてつくられた野菜や食品を普段から食べていたいとの思いが強まり、ついには会社を辞め、自分たちで食品の流通を手掛けるまでになった。
いずれは野菜づくりから自らで手掛けたいとは思っていたものの、しばらくは仕事の傍らで、趣味程度の家庭菜園。
そんな中で、六十歳というのはひとつ重要なタイミングだったのかもしれない。
長年の職にも一区切りつき、身の回りの心配事も少しずつ片付いてきた。「第二の人生」と言うのはあまりに失礼だが、それでも転機には違いない。
二十年、三十年来の憧れであった新規就農に、改めて挑戦する意思を固めたのだった。

その頃、とあるベンチャー企業が新事業としてスタートさせた、週末開講の農業学校。
これも何かの偶然か、千代美さんはまさにその一期生となり、農家への第一歩を踏み出した。
働きながらの技術習得・新規就農を目指すこの学校で、受講生の多くは現役の社会人。
当然のように最年長だった千代美さんだが、一から座学で栽培理論を学び、実習ではトップランナーたちの手際を間近で観察しながら、誰よりも旺盛な向上心で授業に臨んだ。
それと並行して自らハウスを借り、トマト栽培などをスタートさせたこともあってか忙しさはこれまで以上のもので、新たな仕事に心が躍る刺激的な日々が続いた。

今の農地は学校を修了後、人づてに紹介されたものだ。
ビギナー二人が手掛けるには少々広すぎる気はしたものの、冒頭でも述べたように、何よりロケーションが良かった。
広さに適した作物を育てればいいかと発想を転換し、土づくりに励んだ。
もともとが田んぼだった土地なので、植物性たい肥を中心に、近隣の竹材を使用した竹チップなども用いて、より野菜づくりに適した土壌へと改良を進めている。

二人の人生が重なって四十年以上。
喜びも苦労も、今までたくさんの出来事を共に乗り越えてきたに違いないが、夫婦の性格は驚くほど違う。
千代美さんは感覚的で、思い立ってから実行に移すまでが早い。農園にトラブルが発生した時も、試行錯誤を苦にせず、何度も実践を繰り返す。
対して晃さんは、何にでもじっくりと腰を据えて取り組む慎重派。
「僕は“労働者”、いや“雑用”かもなあ」
自虐を込めてそう自称するが、事務手続きや機械修理など、ロジカルな作業は分野を問わず請け負っている。
結局はその性格の違いが、仕事上でも相互補完的に機能しているのだろう。

趣味や余暇の類ではなく、二人が新たに得たのは農業という“仕事”だった。
新たな挑戦には体力が必要だが、時に挑戦という行為そのものが、人を引っ張ってくれることもある。
最近では野菜だけではなく、それを用いた加工品づくりにも意欲を燃やす。
きっとこれからも、二人で足並みを揃えて挑戦を続けていくのだろう。
いや、やっぱり千代美さんが先んじて前へ進み、晃さんはそれを追いかけていくかたちになりそう。
いや、たぶん、なんとなくだけど。