こんな自分でもね、

なんとか、農家として

生きていられるんです。

村上農園 村上雅紀さん

自問自答の数は顔に出る。
器用な生き方はできないのだろう。村上雅紀(まさき)さんの表情は、いつもどこか思慮を含む。
話す言葉は淀みなく滑らかだが、口調は一貫して静か。
そこに押しつけがましさはない。

二浪の後に入学した大学では哲学を専攻した。
農業に興味を持ったのはそのころ。テレビ番組で見た、名も知らぬ有機農家の生き方が心に残った。
「転機」というものがいつ来たのかは定かではない。しかし少なくとも、大学生のうちに将来を描き切るほどの「なにか」とは巡り合えなかった。
大学を卒業後、彼が向かったのは栃木県。世界中から集まった学生たちを、それぞれの農村の指導者として養成する学校がそこにあった。

一つ屋根で共同生活を送るのは、ほとんどが日本を母国としない人々。
学校の広大な敷地内には、田畑や厩舎、加工場までもが含まれる。座学と実技を繰り返して学ぶ有機農業や畜産の技術は、そのまま域内での自給自足の手段へと変わる。
四季が一周すると、学びのカリキュラムは修了となる。そのとき、彼は二十五歳。
農業という非日常が束の間の日常へと変わり、将来には、永続的な日常に変わるのではないか。学校生活の中で、不意に、そう思うような瞬間があった。

本格的に農業をはじめたのは三十歳になってからだった。修業期間では、様々な立場で農業に携わった。
大阪でしばらくの間、ニートや引きこもりの過去がある若者たちと野菜づくりを共にした。

並んで土に向き合いながら、ゆっくり彼らと言葉を交わした。
「福祉」を意識したわけでもないし、「奉仕」や「人助け」という気持ちもない。
自分自身、今まで数多く立ち止まってきたからだろう。畑に出て農作業を行う彼らの中に、かつての自分を見出すことがあった。

古くからの友人がいたということもあり、独立の地には滋賀県を選んだ。
細い路地が家々を区切る古い集落に、他所からくる住人は珍しい。
「無農薬でやりたいのなら、ここの畑にしなさい」
農機具一つで訪れた新天地。一人では難しい家探しや畑探しは、地元のイチゴ農家やNPOの職員が親身になって持ち主に掛け合ってくれた。
誰しもとすぐに打ち解けられるわけではない。しかし、決して閉じたコミュニティではない。
「いつも頑張ってて、偉いなあ」
散歩中の隣人に声をかけられ、そうでもないんだと謙遜する。緩やかで控えめなつながりに、ふと心が安らぐ。

人に対しても、そして野菜に対しても、行き過ぎた管理や介入は苦手だった。
おそらくは、なるべくしてなる自然のサイクル。播種から収穫までの一続きを傍らで眺め、それを支える農法を試みた。
独立から日が浅く、まだ農業だけが生活の基盤ではない。
四十を前にして、子どもは四人。早朝に野菜の収穫を終えると、そのまま副業へと出かける。
帰宅後、暮れていく日に照らされながら、黙々と野菜の泥を落とす。

「こんな自分でもね、なんとか、農家として生きていられるんです」
と、村上さんは言った。
それは謙遜の言葉だったが、同時に、立ち止まる他者に向けた、温かなメッセージにも聞こえた。
何を感じて、何を考えて生きていくのか、悩み続けた二十代。
農業との出会いが今の生活へと繋がり、農業を行うことで今の生活が成り立っている。

村上さんにとって農業とは、「仕事」というより「生き方」や「考え方」に近い。
野菜を洗う玄関先では、扉越しに、はしゃぐ子どもたちの声が聞こえてくる。
かつては想像もしなかった将来が、今、この場所で続いている。
瓦屋根の広い軒先に、小さなブランコとベンチが、手をつなぐようにして並んでいる。